遊星の「マインドフル」で生きる人生

当ブログを訪問してくださりありがとうございます。遊星です。私は、10代にして神経症、うつ病を患い苦しみに苦しみ抜いた果てに、「マインドフルネスストレス低減法 (MBSR)」と呼ばれる「生き方」に出会いました。当ブログでは、MBSRと神経疾患を絡めた記事や、単に生活していく中で気づいたことを書いていきたいと思っています。このブログを読んでくれた方が少しでも楽になれば、これほどの喜びはありません。

【うつ病】本当の意味での休息とは?〜疲れからのメッセージ〜

みなさんこんにちは、遊星です。

うつ病になる原因は人によって様々ですが、肉体的、精神的疲労が極限状態になっているということは、どの方にも共通して言えることです。

また、うつ病になる一歩手前の、持続した疲労を感じる状態も、うつ病の急性期ほどではないにせよ、その疲労自体が身体にストレスを与えてしまいます。

こういった疲労は、通常の疲れとは異なり、放っておくと取り返しのつかないことになりますが、どのように疲労と向き合えばよいかがわからない、という方も少なくないはずです。

どうして疲れが取れないの?

僕がうつ病で最もキツかった時期は、いくら寝ても、食べても、遊んでも

寝た気がしない
身体が重い
心が重い
→きつい。。

といった感じで、

どうしてこんなに世間で言うところの「休息」を取っているのにもかかわらず、疲れがとれないのだろうか。

と毎日もやもやして、ネットで疲労に良いとされる様々な情報を集めて実践したりもしました。

しかし、そのほとんどが徒労に終わり、さらに疲労を蓄積させていくという悪循環を重ねに重ねていました。

疲労を意識すること

しかし、マインドフルネスストレス低減法(MBSR)と呼ばれる、瞑想の技術を生活に取り入れた治療法を疑いながらも継続していたところ、少しずつ疲労に対しての認識が変化していきました。

今までは疲労といえば、自分自身にとって邪魔なもの、程度の認識でしかありませんでした。

従って、疲労を感じればすぐに取り除こうとしましたし、疲労を感じている自分自身を責めたりもしていました。

しかし、呼吸を通じて自分の身体の感覚を感じ取る瞑想の技術により、疲労は自分自身への何らかのメッセージを含んでいるのではないか、と感じるようになったのです。

また、今までは漠然と疲労を感じていましたが、瞑想を継続して行うようになってから、身体のどの部分に疲労が蓄積しているかがわかるようになってきたのです。
本当に少しずつですが。

当時、特に僕が感じていたのが、心臓のあたりを鈍く殴られるような感覚でした。

これを感じている時は、自分自身にとって無理がある考え方や生きかたをしようとしている時であるとわかってから、少しずつ自分自身に向き合うようになりました。

本当の意味での休息とは

以上のことから考える、自分にとっての本当の意味での休息とは

自分自身が感じていることを曇りなく感じ取る

ことだと考えています。

もちろん、うつ病の急性期などは、生きるためのエネルギーが絶対的に枯渇している状態ですから、とにかく安静にしていることが最も重要です。

しかしながら、

・なんとなく身体の疲れが抜けない
うつ病から少しずつ回復してきたが、疲労が抜けずに困っている

といった場合などは、無理のない範囲で

自分自身がどのような疲労を感じているのか

を理解し、あるいは理解しようとし、そこから自分自身の生活や考え方、もっというと人生についてをもう一度捉え直してみる。

これこそが、うつ病などの蓄積した疲労から解放されるために必要な「休息」なのではないかと考えています。



今回は以上になります。

疲労を邪魔なものとして取り除こうとする社会全体の雰囲気に少し違和感を感じるのは僕だけでしょうか。

何かご意見やご質問などありましたら、遠慮なくコメントしていただけると嬉しいです。

【うつ病】うつ病にとって辛い春を上手に渡っていく

みなさんこんにちは、遊星です。

春といえば、みなさん何をイメージされますでしょうか?

・出会いと別れ

・桜

・新生活

などなど、なんとなく明るいイメージを持つ方が多いですよね。

ただ、僕のような自律神経失調症うつ病を患っている方からすれば、春ほどしんどい季節はありません。

自律神経を乱して、うつ病を拗らせてからというもの、春は特に体調を崩しやすいです。

あまりのしんどさに寝込むことも少なくありません。

なぜ春はこんなにも僕にとって辛いのでしょうか。

春がうつ病にとって良くない理由

その①:寒暖差が大きい
春は、冬と夏をまたぐ季節なので、必然的に二つの顔を持っている季節であると言えます。

寒暖差が大きいと、身体がそれに対応しようとして、通常よりも多くのエネルギーを消費することになります。

それが疲労の蓄積につながり、精神にも影響を及ぼしてしまうのですね。

また、寒暖差によりホルモンバランスが乱れ、自律神経に悪影響を及ぼします。

これも精神的には良いことではなく、調子を崩してしまう原因になり得ます。

その②:周りの環境に大きな変化が生じる
春は年度が切り替わることもあり、社会的に様々な変化が訪れます。

学生で言えば、学年が上がったり、進学や就職といったイベントが訪れます。

社会人の場合は、新入社員や人事異動、などなど大きなストレス要因となり得るものが多くありますよね。

また、新しい年度のスタートということもあり、世の雰囲気がなんとなく前向きというか、ポジティブじゃないと!的な流れを感じてしまいます。

この社会全体の雰囲気になんとなく居心地の悪さを感じてしまって、自分を責めてしまったり、マイナスな方向に思考が動いてしまうのです。



以上のように、春はうつ病にとって大きなストレスを与えてしまいます。

ですが、ここで春を憎んでも仕方ありません。

寒暖差は気候によるものなので仕方ないですし、環境に変化が生じることも日本で生きている以上どうしようもないですから。

ですので、これらを変えるというよりは、こういったことにも上手に「乗っかる」意識が重要になります。

これらをあまりに強く意識しすぎると、またそれがストレスになってしまいますから、あくまで受け入れた上で、上手に渡っていく。

こういった意識が大事になると思います。

では、これらにどのように順応して、春を渡っていけば良いのでしょうか?

僕なりに感じていることをまとめてみました。

うつ病でも春を上手に渡るには

その①:寒暖差には白旗を
んー、正直これには白旗を上げるしかないのかなと。

毎年体調崩すんですよね、どれだけ準備して意識していても。

ですから、とにかく無理をしないこと。

これに尽きると思います。

もちろん、寒暖差に対応するための方法はたくさんありますし、情報を探せばそれなりのものが見つかります。

僕も自分なりに色々と努力はしてみました。

ですが、それを頑張ることに疲れてしまう、本末顛倒的なことが生じてしまうのが、僕の毎年のパターンです。

うつ病になると、自分の体調に非常に敏感になるので、この記事を見てくださっている方も乱れた体調をどうにかしたい、と強く感じていることと思います。

乱れる時は乱れる

こう受け入れることで、生じるものは同じですが、そこから受けるストレスの量を減少させる。

こういったアプローチが重要なのかなと今年感じました。

お陰で、無駄な努力もせずにせずに済みましたし、結果的に平年よりも体調はよかったです。


その②:一歩引いた目線で、自分自身を捉える
僕は、現在大学院生という肩書きを持っていますが、うつ病が悪化して休学中です。

この先どうするのかも何もわかりませんし、まあわかりやすく言えば「お先真っ暗」ですね。笑

そして、この2017年の4月にちょうど大学院の同期たちが一斉に就職しました。

大学院の同期たちとは大学時代から6年間苦楽を共にしてきたので、一緒に卒業できなかった悔しさも心にあります。

また、自分だけがなぜこのような状況にあるのだろうという、嫉妬などの気持ちも感じます。

中にはCMで流れているような大企業に就職した同期もいるので、そりゃそういう気持ちにもなりますよね。

僕の場合はこんな感じですが、他の境遇の方の場合も同じような気持ちを感じているのではないでしょうか?

・将来に対する不安、絶望
・自分自身に対する悔しさ
・周りの人間に対する嫉妬

などなど、環境が大きく変わるので、こういった感情を抱く機会が必然的に多くなりますからね。

こういった感情を抱いて、どうにもならない時、僕は

一歩引いた目線で、自分自身を捉え直す

ことを意識しています。

自分が止まっている間に、周りがどんどん動いているので、自分だけが取り残された気持ちになってしまいます。

ですが、一歩引いた目で物事を全体的に見てみると、自分自身は何も変わっていないことに気づきます。

周りが動いているだけで、自分は上にも下にも動いていない。

こうして、現状を「正しく理解」することで、周りの環境に無駄に反応することなく、毎日を穏やかに自分らしく過ごすことができます。

このように正しく理解することはなかなか難しいですが、これを心がけていると、普段の生活から無駄な反応が減り、余計なストレスを受ける機会が少しずつ減っていくのです。



今回は、うつ病で体調を崩しやすい春のストレスフルな状況を乗り切るコツのようなものを扱いました。

大切なのは、無理をしないこと。

あらかじめ体調を崩すことを頭に入れて、肩の力を抜くことを意識しましょう。

自分の現状を一歩引いた目線で捉え直す「正しい理解」をすることで、苦しい自分から抜け出すことができます。

正しい理解を実践したい方は、マインドフルネスストレス低減法 (MBSR)と呼ばれる方法を試してみると良いかもしれません。
flyingbirds.hatenablog.com

今回は以上になります。

何か気になることや疑問に思ったこと、ご意見等あれば遠慮なくコメントしていただけると嬉しいです。

【マインドフルネス】うつ病で白か黒かの二極思考に苦しんでいる方

皆さんこんにちは、遊星です。

うつ病を経験してから、考え方や人生へのスタンスのようなものが変わりましたが、その中でも

白か黒か決めつける極端な思考の偏り

いわゆる、二極思考が緩やかになってきたなと感じています。

二極思考が緩やかになったとはいえ、やはり今でもそういう方向にアタマがいきそうになる時はあります。

しかし、その度にマインドフルネスストレス低減法 (MBSR) により培った、観察する技術や反応しない技術により、思考を客観視することでそこから抜け出すことが出来ています。

このように一度思考から抜け、思考の始まりから終わりを眺めることを繰り返していくうちに

なぜこのような思考をしたがるのか

という根本の部分を考えることができるようになってきました。

なぜ二極思考を追い求めてしまうのか

人が二極思考を追い求めてしまう原因として、未来に対する不安が挙げられます。

色々と思考することができる人間にとって、やはり未来という不確定要素は非常に厄介なものです。

そして、僕は神経症的な要素、いわゆるヒポコンドリー性気質を備えているので、本当にたくさんのことを不安に感じてしまいます。

森田的に言えば、生の欲望が強いということですね。

自分が安全に、しっかりと生きたいという思い (生の欲望) が内面に向いてしまい、

未来のことを全て自分の思考でコントロールしたい

という、まるで魔法使いのような欲求を持ってしまうのです。

flyingbirds.hatenablog.com

そして、不確定な未来のことを正しく考えることは非常に難しく、知らないうちに白か黒かの二極思考的な考え方を追い求めてしまうのではないかと思うようになりました。

二極思考の果て

しかしながら、現実を見てみると、未来をコントロールするなんて到底無理です。

むしろ、未来をコントロールしようとすればするほど、求めているものとは正反対の苦しい未来がやってきてしまいます。

しかし、それを正しく理解しようとせず、未来のことを思索すればするほど、白か黒かの偏った思考の沼に陥ってしまうのです。

そして、この沼は少しずつ広がっていって、白か黒かという物差しが適用される対象が増えてきます。

こうなると、何かが起きるたびに白と黒をいったりきたりして、心が大きく揺さぶられます。

ここでもまた精神的な疲労が積み重なっていくのです。

僕も本当にきつかった。

ただでさえ心に疲労がたまっていたのに、どうしてどんどん積み重なっていくのだろう。
この苦しみを完璧に取り除いて、楽になれる日は果たして来るのだろうか。。。

何度こう考えたことでしょう。

苦しみに苦しんでいたある日のこと、急に

苦しみも全部自分の一部なんだ

という悟りのようなものが自分に訪れました。

悟りとかいってますが、そんなかっこいいものではないですけど、適当な言葉が見当たりませんでした。

こういう心境になってから、苦しみという今までの自分にとって最も忌むべきもの、黒かったもの、白にしようとしていたもの、が「グレー」になったのです。

あの瞬間はきっと死ぬまで忘れることはないでしょう。

苦しみに苦しみ抜いた果てだと思っています。

二極思考を抜けて

あの悟りのようなものを迎えてから、早いものでもうすぐ一年が経とうとしています。

なぜあのような心境を迎えたのか、未だにわかりませんし、もし迎えていなかったとしたら、今頃どうなっていたのか、それを考えると少しゾッとします。

苦しみに苦しみ抜いて、必死にもがいたのが良かったのか、正直今の僕にはわかりません。

あの苦しみを続けていたら、生きているかどうかもわかりませんし。

きっと、運が良かったのだと思います。

今は、自分自身がグレーでいられることへの喜びや幸せを噛み締めています。

仕事もしていない、学生でもない、ただのフリーターですが、大学院で苦しんでいた時より今がはるかに幸せです。

もちろん、お腹を膨れさせてくれる周りのサポートがあってのことですが。

自分の二極思考で、自分の身の回りの人たちのことを完全に置き去りにして、自分のことばかりを考えていたな、と今は思います。

ですが、今は色々なことが自分の中に入ってきます。

それゆえ、悲しいことがあったら以前よりも泣きますが、嬉しいことがあったら以前よりたくさんの幸せを感じられます。

こういう自分になれて、周りの人たちや巡り合わせ、運命のようなものに感謝の念でいっぱいです。

しかし、一番感謝しているのは自分自身にです。

苦しみ抜いて、それでも我慢して生きてくれてありがとう。

本当にそう思います。

二極思考は本当に大切なものを見えなくさせてしまいます。

白か黒なのかにこだわるあまり、現実を正しく理解することができなくなってしまうのです。

そうなると苦しいことだらけになってしまいます。

そうした自分から抜けるためには、マインドフルネスストレス低減法 (MBSR) により、日々を丁寧に生きることが重要だと考えています。

flyingbirds.hatenablog.com

今回は二極思考について思ったことを書き連ねました。

最後まで読んで下さりありがとうございます。

二極思考に苦しんでいる方、マインドフルネスストレス低減法に興味がある方、うつ病が辛い方

何かありましたら、遠慮なくコメントして頂けたらと思っています。

それでは、今日はこの辺で。

マインドフルネスストレス低減法は方法ではなく生き方のようなもの

こんにちは、遊星です。

 

マインドフルネスストレス低減法(MBSR)を実践していると、なんとなくコツというか、向かうべき方向性のようなものが見えてくることがある。あ、慣れてきたんだな、と感じて、安心することもあるかもしれないが、これが意外にも落とし穴になることも多い。

 

慣れる前は、色々なものに初めて触れることもあって、どの瞬間も自分にとって新鮮である。それが故に、「ありのまま受け入れる」であるとか、「今を生きる」といった、MBSRの根幹ともいうべき部分と「新鮮さ」がマッチし、計らずも良い状態、言い換えればマインドフルな状態になることができる。こうなると、自然と体調も上向いてくるし、心の状態も良くなる。

 

しかしながら、慣れてくると新鮮さは当然ながら失われてくる。すると、瞬間をありのままに受け入れられなくなり、「こうした方が体調にいい」だとか、「以前はこう意識したから今もそうしよう」などの、「こだわり」のようなものが出てくる。一見すると、こうした行動は成長したことの証左のように見えるが、MBSRとは真逆の方へ向かってしまっていることになかなか気づくことができない。

 

MBSRでは、「方向性」を持つことを許容しない。言い換えれば、前を向こうが、後ろを向こうが、それが「今」なのである。しかしながら、心の調子が悪い人は総じて真面目なため、自分にとって良かったものは「良い」と判断し、そこからその方向性に向かうことを自分に強制してしまう。これがマインドレスな状態に繋がり、だんだんと心の調子は下ってくる。

 

こうしてみると、

 

MBSRは「テクニック」として用いてはいけない

 

ということがわかると思う。テクニックというのは、あるものを解決するための「方法」のようなもので、解決するという考えには、悪い方から良い方へと向かうという意味での「方向性」が内包されてしまっている。この方向性があると、ありのままに生きる、今をしっかり生きる、ことは難しくなる。判断せずに今を生きることがMBSRの根幹であるから。

 

従って、MBSRにおいては、方法というよりも「生き方」という表現の方がしっくりくるかもしれない。方法というと、なんとなく良い悪いというか、この場面ではこうする、みたいなある種のマニュアル的なものになってしまって、ありのままに今を生きることに繋がりにくい。そうではなく、生き方として捉えれば、どのような自分でも許容するような土台ができやすい。そう感じる。

 

最後までお付き合いくださりありがとうございました。コメント等あれば遠慮なく投稿してください。励みになります。

 

 

うつ病でもなんでもいいからとにかく生きて欲しい。

僕は2015年、大学院1年目の10月にうつ病の症状が悪化してそこから実家で療養生活をし、現在まで至っている。もともと高校生まではほとんど問題なく、むしろ何かと「長」がつくもの、例えば部長や文化祭の実行委員長をこなしていたし、スポーツも苦手ではなかった。勉強は頭は良くなかったけどとにかく努力をこなして、高校でもかなり上の順位をキープしていた。まあ側から見れば「イケてる」奴だなぁと見られてたと自分でも思うし、ちやほやも多少はされていたと思う。そういった環境があれば、平凡な高校生であれば天狗になってしまうのはある意味では必然だと思う。例に漏れず、僕も天狗になっていた。有り体に言えば「図に乗っていた」のだ。

 

まあでも、本当に実力のあるスゴイ人なら天狗になっていたって、図に乗っていたって高校卒業して大学に入っても社会に出ても持ち前の実力一つでどうにかしてしまうのだろう。ただ僕は違った。単なる平凡な人間が、運とそれなりの努力でたまたま上手くいっていただけだったのに、大学に入学してからも自分がスゴイ人間だという気持ちを捨てられずにいた。ただ、大学に入ってしまえばそれこそ色んな人間がいる。周りを見てみると、僕はドがつくほどの平凡な人間で、取り立てて取り柄もないし、対して頭も良くない。だけど、「高校までの自分」にすがりつくことをやめられずに、レベルの低い自己満足のためにあらゆる形で自分のことを守った。大学で上手くいかなくなると塾のバイトで持ち前の「自分のための自己犠牲」を発揮して、受け持った生徒を全員第一志望の学校へ進学させた。対価をもらって働いた時間より、無償で働いていた時間の方が圧倒的に多かった。今考えれば「異常」以外の何物でもない。自分自身は全く満たされていなかった。「ここじゃない」と、次は再び大学で「自己犠牲スキル」を発揮させ、教授に気に入られるようにこれまたレベルの低い努力などをこなした。大学院も主席で入学した。だけど自分自身は全く満足していない。大学院に進学すると、後輩ができた。教授、後輩、実験、結果、、色々なものが僕をがんじがらめにして、「死にたい」と本格的に思うようになってきた。おそらく、僕よりスゴイ人ならば、「死にたい」と思っても頑張れてしまうのだろう。そして突き進んで突き進んで死んでしまう。だけど、僕はそこまで頑張れなかった。最後の最後で持ち前の「自己犠牲」を払うことができなかった。そして、誕生月の10月に大学院を休学した。自分はどこまで中途半端なやつなんだと感じたのは割とはっきり覚えている。

 

そして休学してから一年ちょい経つわけだけど、今の自分は満たされている。いや、完全には満たされてないよ?だってクリスマスなのに一人だし。まあでも、この程度の冗談を言えるくらいには満たされている。うつ病になってよかったか、と聞かれればもちろんそんなんいいわけねえだろって答える。あの苦しみはちょっと辛すぎるし。だけど、うつ病になった意味はあったか、と聞かれれば、まああったんじゃねえの?って答えるかな。

 

あの「死にたい」という思いがなければ、なんとかして卒業までこぎつけて、まあそれなりの会社に就職していたんだと思う。ただそうなると、まず間違いなく大学の親友とも呼べる同期たちとは散り散りになる。そして、勤務地も実家からは遠く離れた場所になっていただろう。そんな状況で、仕事がうまくいかなかったとしたら、というか大学の研究室レベルでうまくいっていなかったんだから、十中八九社会に出てうまくいくはずがない。となるとまあ間違いなく「死にたい」となるだろう。だけど、周りに頼れる人はいない。家族も仲間も。そうなるとどうなる?そう低くない確率で、数年後には僕はこの世にはいなかっただろう。よしんば死ななかったとしても、再起不能になってしまう程度のダメージを負うことになっていたのは間違いない。客観的に見て、僕はこういう人生を歩んでいた可能性が高い。

 

だけど、今はそれなりに満たされた気持ちで生きることができている。ということは、うつ病は僕を「救ってくれた」のではないか。もちろん、実家で療養している時も症状で辛くなったことは数え切れない。そういった中で人生を捨ててしまう可能性もあったわけだが、まあ結果的に生きている。何が自分にとって大切で、これからどう生きて生きたいかということを、しっかりとは言えないけど、それなりに考えることができている。けど、あそこでうつ病が出てきてくれなかったら?そう考えると寒気がする。うつ病は、全く満たされることのない僕を、もっとも危険な、だけど最も本質的な方法で救ってくれたのだと、今は思うようになっている。

 

まさか、こういう風に考えるようになる日が来るとは思わなかった。自分自身が、それなりにではあるが、満たされるようになる日が来るなんて、思ってもみなかった。自分はいつまで終わりのない努力を重ねれば良いのだろう。自分はいつになったら満たされるのだろう。ずっと考えてきたことだが、今は悪くない状況なのではないかと思っている。

 

何が言いたいか自分でもわかんねーって感じなんだけど、要するに「とにかく生きて欲しい」ってこと。うつ病でどんだけ辛くてもとにかく生きて欲しい。絶対に死なないで欲しい。これに尽きる。生きていればきっとどうにかなる、とかこんな無責任なことは言えないけど、少なくとも生きていないと何かは起こらない。死んでしまったら灰になって終わり、これは間違いない。そんなの悲しすぎるって。生きていれば割と死なないものだから。だから生きて欲しい。言いたいことはただそれだけ。

 

 

うつ病に薬ってどうなんだろ

精神疾患の治療において、薬物療法に対する議論みたいなものはそこいらで見かけることが多い。書籍などでも「薬なしで」だとか、「薬に頼らず」だとか、そういったフレーズがタイトルに入るものって結構あるし、ネットなどでもそういった類のものがそこら中に落ちている。

 

まあこんな感じで、うつ病とか神経症の治療に薬物療法はアリなのか、ナシなのかみたいになっちゃうのはわからないでもない。だって、やっぱ怖いしね、メンタル系の薬って。一般の人にメンタル系の薬飲んでるよって言っただけでなんかこう微妙な空気になること多いし、まあ少なくとも日本ではこんな感じの「雰囲気」が未だに蔓延してて、それが故にいざ自分がうつ病になっても「うっわメンタルの薬とかやばいんじゃね?飲みたくねえよマジで」みたいな、そんな感じなってしまうんだと思う。だけど、ほとんどの精神科とかメンタルクリニック薬物療法を採用してるから、ガンガン薬処方されて、言われるがままに飲んでるって人やっぱ多い。

 

まあ話を戻すと、薬物療法がアリかどうかは正直どうでもいいことだと思う。そもそもうつ病がまだ医学的、生理学的に完全にというか、全く明らかにされていない状態なのに、薬がアリかなしかみたいなそんな議論は意味ない。うつ病を説明するときに使われる「モノアミン仮説」があるけれど、所詮仮説の域を出ないわけで、というか今の技術だと脳内の神経伝達物質をリアルタイムでモニターなんてできないわけだから、仮説にしかならないんだし。だから、そういった状態で薬がどうとか言っても両者の意見が食い違うのは当たり前なんじゃないかって思ってしまう。だって、前提条件が仮説なのだから。んじゃあ何で薬なんかあんのって言えば、「経験則的にこいつがなんか効果ありそうじゃね?いっとく?」みたいなそんな感じなんだよね。それをまあ安全性とか効果を統計学的に処理して、いけるっしょみたいな判断を国から出されれば発売して患者まで届くみたいな、そんな流れ。だからこそ、うつ病だけでも薬ってめちゃめちゃ種類あるし、「あー今回これ効かなかったか、じゃ次これで」みたいな会話、失礼、診察が成立するんだと思う。だから、効くか効かないかなんて服用してみないとわかんない。元々の前提条件が仮説な訳だし、何よりメンタルっていう可視化、数値化できないものを相手にしてるわけだから、患者はおろか医者だってどういう作用をこの患者に及ぼすかなんてわかるわけがない。そんで、効かなかったら「じゃ次これいっとこ」とか「あーじゃあミリ数あげちゃおっか」みたいな感じになっていくわけ。

 

まあこんな感じの背景がうつ病関係の薬にはあるわけで、じゃあこういったことを踏まえて薬がどうなのかみたいな、そういった話をしていくと、これは人によるんだと思う。「こんな曖昧な感じで薬出されるとかありえねえわ、ふざけんな」って感じる人もいるだろうし、「まあ効果があるならとりあえず服用してみようかな」的な感じのことを思う人もいると思う。これは本当に人によるし、前者みたいなことを思う人は、薬以外の選択肢を見つける必要はある。これを見つけるのがクッソ大変なんだけど、まあこれはまた別の機会にでも。で、自分自身がどう感じているかなんだけど、俺は「上手く付き合っていけば割とアリなんじゃね?」みたいに現時点では感じてる。ただ医者から言われるがままに処方され続けて、結局なんも変わってないです、みたいなそんな感じなら服用する意味ってどうなんだろうって思う。だって、前提条件が曖昧な上に、患者のメンタルなんて医者がわかるわけないんだから。だけど、ずっといってるように、本当に不確定要素が多い中で薬が当たり前に処方されているわけだから、とにかく自分自身で薬とかうつ病とかに関する知識は最低限身につけて、その上であえて医学側の土俵に乗り込むみたいな。なんか色々曖昧なのはわかってるけど、経験則的に効果が全くないわけではないし、だったらとりあえず服用してみるか、みたいなそんなスタンスでいくとなんとなくいいんじゃないかって思ってる。

 

薬ってのはあくまで方法論の一つで、自分自身がやってみようって判断すればそれは「アリ」だと思うし、いやねえわって思うなら「ナシ」、結局これを言いたかった。最終的には、患者自身の問題に落ち着くってとこが、またなんか腑に落ちないところではあるけど、自分自身の身体の事だしそれはそれで仕方のない事なのかなとも感じてる。

 

 

【マインドフルネス・うつ病】マインドフルネスを実践して、抗うつ薬が減るまで〜MBSR実践シリーズ〜

皆さんこんにちは、遊星です。

 

僕は、大学入学後に神経症 (強迫) を発症し、そこから無理をしてうつ病を発症しました。

 

現在、なんだかんだ6年近く服用していたメンタルの薬の減薬をしていますが、何とか大崩れすることなく、生活することができています。

 

これまでも何度か減薬を考えたことはありましたが、なかなか一歩が踏み出せませんでした。

 

そこには、失敗したら怖いという気持ちがあったり、減薬をして自分がおかしくなってしまったらどうしようという気持ちがあったかな、と今は思います。

 

 

 薬に対するこだわり

 そういったことがあって、なかなか減薬には踏み出せませんでした。

 

ですが、マインドフルネスストレス低減法 (MBSR) を実践していくうちに、あるがままの自分を少しずつ受け入れることができるようになってきました。

 

そうしたことを経て、今の薬を飲みながら生活している自分を、特に悪いとも良いとも思わなくなったんですね。

 

今までは、

 

抗うつ薬を飲んでいる自分=悪

 

という強烈な固定観念があったのですが、薬を飲んでいたって大した問題ではない、と思うようになったのです。

 

すると、誤ったこだわりや思い込みが自分の中から消えていくので、心がだんだんと落ち着いてきます。

 

身体全体の調子も良くなってきて、薬を減らしても良いのではないか、という段階まで来たのです。

 

逆説的ですが、薬をやめる必要はない、と思うことによって、薬をやめることに近づいた、ということになります。

 

 

思い込みを1つずつ手放していく

MBSRを実践していくと、少しずつですが、今まで自分が正しいとか、真実だと思ってきたことが矯正されていきます。

 

僕が常々感じていたことを例に挙げると、

うつ病になった自分はダメ人間だ

抗うつ薬は早く辞めなければ

・働かないで周りの人間に助けられることは卑怯者のやることだ

 

といったことでしょうか。

 

あくまでこれらのことは、私個人が感じていたことで、本当に真実な訳がありません。

 

なぜなら、うつ病になったってできることは山ほどあります。

 

それに、同病の方や同じ苦しみを感じている方の気持ちがわかるようになり、患う前よりも人間として大きく成長することができます。

 

他のことも同様に、少し自分の視点から「抜けて」、客観性を持つことによって、思考の偏りがあることに気づくことができるはずなのです。

 

うつ病を患い、自分にこだわりすぎていなければ、という前提が必要ですが。

 

自分にこだわっていると、周りが見えなくなります。

 

そうなると、孤独感を味わうことにも繋がりますし、周りの人間を偏った目線でしか見れなくなってしまうのです。

 

しかし、自分のこだわりから抜けることで、少しずつ偏った思考が矯正されていき、本来の生き生きとした自分で生きることができるようになってきます。

 

これが、幸せへと繋がるのです。

 

僕もまだまだ偏りやこだわりから抜けきれない時もあります。

 

行ったり来たりの繰り返しですが、差し引きで少しだけ前に進んでいる。

 

この繰り返しですね。

 

苦しいこともありますが、ただ苦しんでいた時と比べて、充実感があります。

 

 

今回は以上になります。

 

MBSRの実践で、薬を飲むことにこだわらなくなって、薬の量が減ってきた、というお話でした。

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

心よりの感謝を。

 

遊星