【神経症・うつ病】うわべだけの感謝が持つ危険性〜自分に対して素直になる〜
皆さんこんにちは、遊星です。
巷で売り出されている自己啓発本のような類のものは、必ずといっていいほどに「感謝の気持ち」を持つことの重要性を説いています 。
僕も、神経症やうつ病を患ってから本当に自分のことしか考えていなかったな、と反省の気持ちを毎日のように感じています。
特に、これらの病気による苦しみは自分に固執するあまり産み出される事ばかりなので、そういった意味で周りの色々なことに感謝の気持ちを感じながら生活することは極めて重要です。
しかしながら、他人に感謝の気持ちを持てと言われてする感謝ほど、薄っぺらいものはないのではないか
とも思います。
感謝を「しなければならない」
僕が神経症やうつ病で苦しんでいた時、本当にたくさんの自己啓発本の類のものを読み漁りました。
その中に決まって出てきたのが、感謝をすることへの重要性です。
今振り返ると、そもそもそういったもので、いわば「インスタント」に苦しみから抜け出そうとしていた自分に問題があったのですが、そうはいうものの、苦しい時には何かにすがりたくなるのが人間というものです。
そして、感謝を「しなければならない」という思いで日々生活していましたが、一向に苦しみからは抜け出せませんでした (そもそも、苦しみから抜け出すことを理由として自己啓発本を読むという発想が誤っているのですが) 。
感謝という言葉により自己嫌悪に
そうした生活を続けていくうちに、自分の中で限界がきて、当時通っていた大学院を休学しました。
そこから出口の見えない苦しい1年間を実家で過ごし、時には親や自分の環境を恨んだりもしました。
ですがその度に、脳裏に「感謝をしなければならない」というワードがちらついて、自己嫌悪の波にさらわれるのです。
特に、離婚した両親について、極めて強い憎悪の念が湧き上がってきた時には、
自分を生んでくれた両親に対してそういう思いを持つなんて、自分は生きているべきではない
と感じました。
苦しみの底で見えたもの
そういったことを思って苦しみに苦しんで、実家に戻ってから1年と少しほど経ったある日
苦しみや憎しみといったものも、大切な自分の一部なのだ
という心境が僕に訪れました。
今までの僕は、感謝、楽しみ、幸せ、といった自分にとって都合のいいものを自分と捉え、そうではないものを自分ではないと決めつけ、排除しようとしていました。
ですが、苦しみにまみれた果てに、「全てが自分で一体なのだ」と思うようになったのです。
自分に対して素直になるということ
このような心境になってから、今までの自分にとっては邪魔なものだった感情などにも、しっかりと自分の中で向き合えるようになりました。
自分にとって善いものと悪いものの区別をしないように心がけたのです。
この心がけを持って生活していると、自分に執着している状態から抜けた視点から考えることができるようになるので、
どうして自分がこういった憎しみや苦しみといった感情を持つのか
ということが少しずつわかってきます。
そしてそのどれもが、自分に対する自分の心からのメッセージであったことに気がつくのです。
自分にとって辛いことがあった、だから苦しい
自分にとって辛いことをされた、だから憎い
素直にこう思えば、何も問題はないはずです。
なぜなら、それが自分にとっては事実なのですから。
このように素直に自分の気持ちを感じ取っていくうちに、今まで満ちることのなかった自分の心が満たされていき、心から「感謝したい」と感じるようになりました。
そして、心からの感謝を持つものこそが、自分にとって大切であることが理解でき、今まで自分がこだわってきたりしがみついてきたものが、心から望んでいるのものではないことに気がつくのです。
今は、少しずつ「自分の」人生が進み始めていると、心の底から思います。
今回は以上になります。
うわべだけの言葉に乗るのではなく、自分が感じていることを素直に受け止める。
そういったものを乗り越えた上で、心からの感謝の気持ちを持てるようになるのでないかと思うのです。
何かご意見などありましたら、遠慮なくコメントして頂けると嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
心からの感謝を。
遊星